2012年12月10日月曜日

お別れのご挨拶

お越しいただいている皆様へ

4月に引っ越してきたBloggerですが、大家曰く、
「保存容量が足りません。現在、写真の保存容量 1 GB を 100% 使用しています」
とのことでして、この度小さく舌打ちをしつつ出払う運びとなりました。
8ヶ月ばかりの短い間でしたが、お越しいただいたことに感謝するとともに、今後も変わらずお立ち寄りいただけますことを楽しみにしております。

引越し先は
http://nisomaru.wordpress.com/
です。

とねりの庭
にそ丸

2012年11月26日月曜日

とある編集者のひとりごと。

あらためて思う。オレってバカだなぁ、と。
お先しますと職場を後にして、その足で編集部へ入り、また同じくらいの時間仕事と同じ作業をする毎日。
仕事では決して許されない過剰な時間の掛けようも過度な演出も、好きに思う存分できることに幸せを感じる自分がいる。
どんだけ好きなのよ、と。
まったくバカだね。

さ、今夜もまたバカ祭り、はじめますか。


本当に好きなのは動画編集じゃないんだ。
本当に好きなのは、Guff。




2012年11月18日日曜日

文化。

今日はとなり町の文化祭を撮影してきた。
文化祭といっても展示モノではなく、ステージ発表モノ。
内容はベンチャーズコピーバンドから歌謡舞踊、郷土芸能まで様々で、およそ3時間のボリューム。

撮影しながら思ったことがある。
演歌界というものの将来は、世間で言われているよりも、それはもうとんでもなく暗いのではないだろうかということ。
以前から言われていることではあるけれど、あらためて考えてみたら、言葉は悪いが、本当にお先真っ暗に思えた次第で。
氷川きよしだジェロだと言っても、今の若者が聴いたり買ったりしているとはとても思えないし、我々がどんどん歳をとっていっても、嗜好が変わるとは思えない。
なんの裏付けもない勝手な想像だが、今50歳の人もほとんど聴いてないんじゃなかろうか。60歳でもあやしい。支持者はそっからさらに上の人たちなのではないか。いや全くの想像だが。
やがて居酒屋の経営者も若くなり、「おでん屋のおばちゃん」だって我々の世代になってゆくだろう。その時に果たして有線で演歌が流れているのだろうか。そんな風景はまったく想像ができないし、好んで通う客もそういないように思う。

果たして来るのだろうか。
歳の近い友人が演歌を聴きだしたり、カラオケで歌うところを目撃する日が。


演歌ゾーンのない紅白も、いずれは。

2012年11月17日土曜日

人はその意味を探したくなるもの。

不安定な構図や、
意味不明な被写体を切り取った写真は、


否定されにくいという事実。

その人のキャラやキャプションなんかに騙されんなよ。

2012年11月15日木曜日

流れ。

今年は仙人峠を経由して遠野へ秋を観に行こうと計画していた。
結局それも叶わないまま11月も折り返しを過ぎ、気がつけば晩秋。
まさに「気がつけば」という表現がぴったりだ。

時間の流れは普遍。
自分が走っていても止まっていても、時間だけは等速で進み続ける。

浅い川の中に立つことを想像する。
下流を見るように、上流に背を向けて川の中に立つ。
前方へと流れて行く足元の水と、立ち止まった自分との相対的な速度は早い。
水の流れに置いてきぼりにされている状態だ。

今度はこの浅い川を下流に向かって走ってみる。水の流れと自分との速度の差は、立ち止まっている時と比べて小さくなり、つまりは相対的にゆっくり流れている状態となる。
しかしこれは自分主観の速度であり、実際の水の流れる速度は変わっていない。あくまでも、体感。

一方、時間の流れはどうだろうか。
日々に「追い立てられ」ているような、いわゆる「走っている時」には、あっという間に時間が過ぎているように感じるものだ。
これは川の流れとは真逆の感覚といえるが、立ち止まっているときに感じる「置いていかれる」ような感覚は川の流れと同等だ。

同じ「流れ」ではあるが、川と時の流れは同じではない。
川は川でしかないが、時は時単体で流れているのではなく、周りの風景も一緒に流す。

日々に追われるということは、時の流れに背中を押されているということ。
言い換えるなら、船。
船と時の流れの速度差が相対的に小さくても、風景を見渡せば自分の速度がいかなるものか解る。
これは、時間が止まらない以上、立ち止まることはできないということでもある。

流れに乗ると感じるか、流されていると感じるか。
どちらにしても、「流れ」を意識しなければ感じることはできない。

「気がつけば」。なるべくなら使いたくないものだ。


2012年11月4日日曜日

あまり眠くない理由

ほとんど寝ない日々を乗り越え、とうとう締切ギリギリの朝7時に入稿することができた宮古市発のフリーペーパーGuff vol.2の原稿。
それまでの日々がそうだったように、入稿を果たしたその後も当然のことながら仕事だった。
その仕事もきちんとこなし、どのくらいぶりだろう?と思い返しても思い出せないぶりとなる「その日のうちの帰宅」を果たした。
2日ぶりの風呂に入り、これまたどれくらいぶりか忘れてしまった自宅飯を食べながら、ひと月ぶりに呑む熱燗は感動的に旨かった。

腹も膨らみ、こたつにごろりと横になると、いつの間にか眠ってしまった。
ふと目が覚め時計を見ると、まだ22時前。ずいぶんと眠ったような気がしたが、一時間しか経っていなかった。
食べ終わった食器を片づけ、歯を磨きながら原稿は全部揃っていただろうかと気になったが、気にしてもなにもならないことに気づき、考えるのを停止した。

布団に這入り、部屋の照明を落とす。
22時に寝るなんて、数十年ぶりのことだろう。これからもまずないに違いないだろうし。
年季のはいったガラケーをスライドさせ、していなかったメールの返信を済ませる。
facebookをチェックし、いくつかのいいね!と、いくつかのコメントをかいt

まだ目覚ましのケータイアラームは鳴っていないが、目が覚める気配がした。
毎朝世界を呪うことを忘れない自慢の低血圧だが、この日は違った。やはり掛け布団もない固い編集部の床とは違う、柔らかく暖かい布団でのゆっくりした睡眠は格別だったのだろう。いつもの悪い朝ではない感じのまま覚醒できそうだった。しかし目を開けると目が覚めてしまう(低血圧ならでは表現)ので、目は閉じたまま今何時くらいか、今日はどんな作業をすればよかったか、そうだ、もう急ぐべきことは多くないのだ、などと幸せに似た気持ちを噛み締めた。
さて、ぼくはあとどのくらい寝られるだろうか? と一応壁にかけてある時計を薄目でそっと見たら1を過ぎたあたりに短針が居た。
カーテンを見遣ると、そのすき間から漏れている光の色は深夜1時のそれではなかった。これはかの有名な13時だ。

……

慢性低血圧vs大寝坊のカードほどの泥仕合は世界を見渡してもそうないだろう。
バタンバタンと大音を立てながらタンスを開けたり閉めたりしつつ、撮影や取材のような重要な仕事がなかったか、一向に動く気配のない脳みそで慎重に慎重に検証。
ケータイを開くと電源が落ちていた。壁掛けの時計による寝坊ドッキリの可能性に淡い期待を抱きながら充電器をつなぐ。起動するまでの間に服を着つつ、上司への言い訳という名の適度なウソを数パターン制作を試みるも、すべてゴールデンラズベリー賞。起動したケータイを見ると、規律正しい数字で13:18とあった。上司には素直に謝罪することを決定し、会社に連絡を入れた。
そしてぼくは気が楽になった。

今振り返ると、あのfacebook in お布団の最中に寝オチし、そのせいもあってケータイの電池がなくなったのだろうが、重要な仕事がなくて本当によかったと思う。
そして22時から13時までの睡眠すべてが熟睡だったことと、そこに微塵の寝過ぎ感もなかったことにいささか驚いたのであった。

そんな感じのダメおっさんが関わったGuffは、今月11月11日に発行されます。
どうぞご期待ください。

ぼく以外の編集部員はちゃんとした大人です。




2012年10月27日土曜日

HONDA with my SOUL

失ってから気づく。それがどれだけ貴重なものだったかと。

彼のライブを聴くことはさして珍しいことではなかった。
正直いえば、また来たのねくらいに思ったこともある。

真夏の青い空と海をバックに従えた三陸海の博覧会のステージ。
もともと地黒の彼は夏の光を背負ってさらに黒く、ピアノと同化していた。
終わることを知らないような晴天の夏空に溶けてゆくピアノの音。
あの頃に、同じ音色は二度とないことをちゃんと理解していればよかったと今になって悔しく思う。

音のように空へ消えた彼。
しかしその魂は消えていない。



T-shirt:Tamaya Honda
Photo:Ayumi Kudou
Soul:Takehiro Honda

2012年10月15日月曜日

ワレ思う故に


【拭う】ぬぐ・う〔ぬぐふ〕[動ワ五(ハ四)]
1 ふいてきれいにする。「汗を―・う」「涙を―・う」
2 汚点などを除き去る。また、消し去る。「汚名を―・う」「無責任の感を―・いきれない」
─コトバンクより

なんの間違いも勘違いもなく覚えていた言葉「拭う」。
そこにきて改めて思ったんだ。「尻拭い」って、どうよ?って。
だってさ、「尻」を「拭う」んだぜ?
拭うってことはだ、拭うべきナニかが尻にあるってことだろ?
そもそも尻は涙を流さないし、汗っつったってそんな背中やワキほどかく場所じゃないだろ、尻はさ。
じゃあ何を拭うんですか? なにを拭わされるんですか?って話だよ。

ド下ネタじゃねーか。

いいか? その画を想像してごらんなさいって。自分が上司のを、とかさ。
あるか? そんな画、あるか?
ねーよ。どんなプレイだっつの。

信じられるか?21世紀の日本だのに、こんな慣用句が大手を振ってのうのうと道のど真ん中を歩いてんだぜ?海外じゃXXX扱いになってもおかしかねぇんじゃねーの?
「そんな汚い言葉をどこで覚えてきたの? ねぇ、けんちゃん!けんちゃん!!」ってママがけんちゃん(小2)の両手を掴んでおろおろ泣いてもいいぐらいだろ、こんなもん。

なぁおまえら。こんな日本、どうよ?
俺はな、俺ぁな……、大好きです。


よし、旅に出よう。


2012年10月10日水曜日

そっとしておいてくれないか。

アジとサヨリです。
アジは生きていますが、サヨリは死体です。
死んでるのに、まわりをうろちょろされるのって、ヤだなぁ。

吉永サヨリのようにアジn……やめときます。

2012年10月3日水曜日

冬支度

9月の結びを意識した投稿をしないまま10月になりさらに数日が過ぎた。
笑っちゃうくらい忙しいことも十分な睡眠が摂れないことも十数年続けてきただけに慣れっこである。
そんなことを繰り返すうちに体重はじわりじわりと減り続けていて去年から54kg台をウロウロしている。
ベスト兼最高体重が57kgなのでその差はたった3kgはあるが贅肉のない体の3kg減は文字通り「身を削って」いたのであろう。

去る8月の後半から「食べる」ことを意識するように心がけてみた。
高校生の時からの習慣で朝食を食べることはないが一日二食をきっちりと多めに摂ることと間食をすることに努力した。
その甲斐あって体重計は「あぁん?」でも「しーん...」でもなく賛辞の嵐スタンディングオベーションの56kg台。
ダイエットで2kg減ったと言って喜ぶ人の気持がはじめてわかった次第である。

時折しも食欲の秋。
ガリガリくんの冬は寒い。
来る冬に備えて脂肪を蓄えるべく日夜努力を惜しまず食べていく所存なのである。

そんなわけで遅ればせながらさようならでした9月。
どうぞよろしく10月。


省エネのため読点は使用しませんでした。

2012年9月28日金曜日

過ぎたるは


日々面白くない

生きていれば面白くないこともある
むしろ面白くないことのほうが多い

面白いことなどそうそうない
しかし全くないわけでもない

人生は面白い



生きよう。

2012年9月25日火曜日

やっぱりね

みんなスルーしてるのかな。
それともぼくが考えすぎなのか。
おそらく後者だとはおもうけれども、思うところがあったのでしたためます。

「やっぱり」
この言葉があふれすぎだと思うのです。
テレビの街頭インタビューを観てると(聞いてると)必ずと言いたくなるほど出てきます。
スポーツ選手のインタビューでもそう。
ね、そうでしょ?
なに?まだピンときてない?
だいじょーぶ。それも普通です。ぼくはちょっと過敏だからね。
今度からさ、インタビューなんかが放送されたとき、ちょっと気をつけて見るといいよ。
やたらにでてくるから「やっぱり」が。
そしてね、キミが話すときにも、もしくは誰かと会話をするときにも気をつけてみるといい。
ときには「っぱり」って言ったりするけど、本当に多いから「やっぱり」が。
「あー」「えー」「んと」のように使ってるから。

もっと自分の意見に自信を持って話そうよ。
そしたらやっぱりやっぱりは減ると思うんだ。

これに合う画像ってナニよ?



2012年9月21日金曜日

先輩。

先日とある業界のパーティに行ってきた。っても仕事でね。
出席者はおよそ200人で、その業界の会長社長などの大先輩ばかり。この方々の会社の年商総合計ってどんだけなんだろかねーなんて下世話な考えが頭をよぎったよ。

さて開宴。
祝辞が始まってほどなくピリリリリリってケータイ着信音。
ったく、開宴前に司会者が言ってたじゃん「携帯電話は電源をお切りになるかマナーモードでー」ってさ。つーか、言われなくてもこういう会場に入ったら自発的にマナーモードにしませんかね。オトナなら。
そしてその音ってばいつまでも鳴り止まない。持ち主気付いていないのか?それとも出るのが恥ずかしいか?「早く止まれ相手切れ相手諦めろ」とか念じてんのか?みんなに迷惑かけてんだから、観念してケータイ取り出せや!という満場の念に押されたようで、一瞬着信音が大きくクリアになった。ポケットから取り出したんだろね。すぐに続いた「ピッピ」という切断の音。

オレはすぐ思ったね。
電源は切りましたか?あなたのような人間の元へはもう一度来ますよ?でもマナーモードにもしてないでしょ。そうですよね、あんだけ鳴らしっぱなしにできる度胸の持ち主ですから、そんな細かいことは気にしないですよね。

そこからたった30秒後でした。NEXTピリリリリリ。
手に持ってたんだろね。今度はすぐに「ピッピ」つった。おそらくここで電源OFFったんだろね。次はなかったから。
事情を知らない相手に怒るタイプだよ。「なんで二度もかけてくるんだ!」つって。バカだから。バカだから。

ご祝辞お二人目のときでございました。会場に名曲が流れたんですね。
曲は「くるみ割り人形」です。どうぞお聞きください。って、コラ。
おい会長さんよ。なに?社長?知らねーよじじい。
さっきのピリリリリ聞いてなかったのか?音の発生場所的に、さっきのバカはあんたのすぐ近くだったんじゃねーか?気づいてたろ?うるせーなーって思ったろ?
「嗚呼そういえば儂もマナーモードにしておらんかったのう」と我が振り直さないか?
どうせ「ありゃ!おれもだwww」だろうけど、どっちにしてもバカだな。

そんなのがあと2件。
もうね……もうね、情けねーよ俺ぁ。
ステージ見てご覧よ。主役の人の子供がいい歌うたってんじゃん。お父さんってば涙うかべてますよ。ね。
そこにきて「やーやーやーやーおめでとうございますー」ってさー。
この歌の最中くらいビール注ぎ風ヘーコラは遠慮しなよ。確かに顔は覚えてもらえるだろうさ。悪い意味でな。

最低限のマナーってもんはあるだろうよ。な?違うか?
立派でいてくれよ。尊敬させたままでいてくれよ。頼みますよ、先輩。


こころ穏やかなれ。

2012年9月17日月曜日

またね。

「まだ夏だ。」「いつまでも終わるな。」「このままでいい。」
前代未聞の残暑にかこつけて、昨日までしつこく言い続けてきた。
それも口ばっかりで、実は参ってんじゃねーの?と言われてもしょうがないほど、我々の理解を越えた酷残暑ではあるが、それでもやっぱり夏が好きだ。
ちなみにこの夏、車のエアコンを入れたのは二度。二回とも客人を乗せた時だけだ。それほどに夏が好きだし、暑いのが好きだ。

2012年9月17日月曜日。
魚屋をのぞくと、さんまが安くなり鮭が並びだしていた。
そして昨日、秋まつりも終わった。
気温の高さは変わっていないが、ぼくの中で何かが変わった。

夏は、終わった。

8月の終わりに感じた夏の終わりの切なさや焦燥感はもう、ない。
だから背筋を伸ばし、笑顔で言える。
さようなら、夏。


秋、好きだぜ! 夏にはナイショだぞー

2012年9月15日土曜日

昔話をするようになったらもうおっさんな。

子供の頃の記憶。
地面より高く見える海を見て、どうしてこぼれないのだろうと不思議に思った。
やがて成長し、高く見えているだけで、こぼれることはないことを体感的に憶えた。
大人と呼ばれる年齢になった今、この道に立ち、思った。
なぜ高く見えるのか未だに解んねー。

実は解る気もない。


2012年9月14日金曜日

幸福論

ある人が会社にやってきた。昔から知っている五十路の男だ。
男はよく冷えたミニッツメイド一本をぼくにくれた。
その後の会話が興味深いものだったので、その全てをみなさんに披露しようと思う。


男「ごぶさたしておりました。あれ?痩せたんじゃありませんか?」

私「あー、痩せたかもしれませんね」

男「ネス湖にはやっぱりいたそうですよ。ネッシーね。あとは3メートルくらいの亀も」

私「3メートルって、もう恐竜ですね」

男「湖底にはUFOの基地がありますからね。そういえばこないだもUFOにお会いしましたよ、150メートルくらいの。今は誰が乗っているかもわかっているんですよ。先日も、」

私「それにしても今日もまた暑いですね」

男「はい、暑いですね。ということで今日はこのくらいにしておきます。それではさようなら」


私は男が置いていったミニッツメイドを冷蔵庫にしまい自販機からミニッツメイドを買ってきた。

言い忘れていたがこの男、某幸せな団体の者である。


木陰のベンチっていいですね。

2012年9月10日月曜日

くしゃくしゃ

あの日から一年以上経っても日々泣いてた。飽きもしないで。

悲しくて泣くんじゃないんだよなぁ。
あの頃は自分ん中がなんだかわからないものでいっぱいになりがちで、
そのなんだかわからないものを定期的に出しちゃわないと苦しくなんの。
それを外に出す作業が泣くということだったんだと思う。
だからわざと泣くようにしてた。もともと涙もろいから難しくはなかったよ。

本や映画もお世話になったけど、必ずしも期待通りの仕事をしてくれなかったり、そもそもそれらは時間がかかるものなので、今出したい!って時には不向きだった。
良かったのはね、音楽。「泣ける曲」なんてベタに検索すんの。そんですぐ聴くんじゃなくて、まずは歌詞を調べて悲しい内容だったら却下。悲しくなりたいわけじゃないからね。いかにもお涙頂戴ソングも基本的にはダメ。「さあ泣け!」と言われてるようでしらける。そのあたりの線引はビシシッとオレ次第のその時次第だから、みなさんは知らんがなでおk。
ざっくり云えば希望を感じる曲か。希望ってのが未だにはっきりわからないけど、そこはニュアンスで。

だけどね、泣くってのはカロリーを使うもので、結構疲れるのよ。
あー溜まってきたなーって感じて検索を始めて、ちょうどいい曲になかなか出会えなくて、ようやく探し当てて聴こうかなーってところでジャマが入ったりして……。
でようやく見つけて泣いてスッキリはするけどかなり疲れて。
とにかく完了するまでっつったら、まぁめんどくさい。ヘトヘトになる。でも出さないともっとめんどうなことになるからサボるわけにもいかないし。

そんな中で出会ったのが加藤愛-かとうめぐみ-さんの楽曲だった。
自分の気持ちにシンクロする曲がたくさんあって、ムダに検索をすることもなくなった。動画サイトに行って「加藤愛」の動画へ行き、どれかをクリックすれば、はい完了、というお手軽感(加藤さんに失礼な表現)。

その中でもとりわけ同調したのは「くしゃくしゃ」という曲だった。
何度も聴いて何度も泣いた。
そうしているうちに「なんだかわからないもの」が自分の中にたまることが少なくなり、やがてはそれを外に出す作業をすることもなくなった。
一言で云えば、この曲に救われた、のだと思う。

去る9月8日、友人が加藤さんを宮古に呼んでライブを開催した。無論、良かった。
ステージ後の打ち上げで、ライブ本編では演らなかった「くしゃくしゃ」を歌ってくれた。
数カ月ぶりに歌で泣いた。
そのあと笑った。
歌の歌詞と同じだった。

にそ丸「おれね、めぐみさんにありがとう以上の言葉を言いたいけど、なんて言えばいいかわかんないや」
めぐみ「ありがとう以上は『ありがとう』ですよ。こちらこそ『ありがとう』です」

2012年9月7日金曜日



七年の間繰り返し思っていたのは、両親から受け継いだ記憶。
空、樹、土、雨、鳥。一度も見たことはないけれど、全部しっている。


眠りから覚め、ぼくは地上を目指し上へと掘り進んだ。やがて記憶にはない硬い物に突き当たったので、空気の匂いがわずかに強い西へと方向を変えた。先に行った兄弟達が掘った道に出ると、その匂いがぐんと強くなった。

記憶にない硬い物の隙間に手をかけて、よいしょと地上に這い出た。記憶にある夜明け前の明るさがあった。
辺りを見渡すと、硬い物から生えた草がいくつもあった。兄弟達が着替えた跡もある。ぼくもそこで着替えを済ませよう。そう思い草へ向かったところで鳥に咥えられた。

躰が壊れてゆくバキバキという音を聞きながら、遠くなる地面を見ていた。よくしっている見慣れた光景だった。
兄弟たちの声が遠くに聞こえる。ぼくが今日こうして鳥に捕らえられたことで助かった兄弟たちの声だ。
地面がさらに遠くなり、空が近くなってきた。
ひとつ、またひとつと増えてゆく兄弟たちの声が小さくなる。地面も空も見えなくなってきた。
ぼくは、ぼくの役目を果たした。
うれしくて




ニソップ物語 10

「蝉」

隧道。

かつては大変だった道を、安全に、早く、快適なものにしてくれるトンネル。
なのに比喩で使われる場合は決していいように言われないトンネル。
「トンネルに入ったような」「いつかは抜け出せる」など悪い状態の引き合いに出されるトンネル。
野球において一番恥ずかしいエラーとされ、不振が続くとスランプのトンネルなどとも言われるトンネル。
暗いだの怖いだの臭いだの出るだの言われるトンネル。
トンネルよ、嗚呼トンネルよ。
「人生には上り坂もあれば下り坂もある」だの「真っ直ぐで平坦な道ばかりではなく、時に曲がりくねった道もありー」と表現されるその道を、ストンと楽にしてやったのにねトンネル。

よし決めた。
ぼくは今日からトンネルを良い喩えとして使ってゆこう。
まっすぐな人には「あなたはトンネルのような人だ」と褒め、
性格は曲がっていても話が早い人には「あなたの話はトンネルのようですね」とそやし、
人生クネクネ道にいる人を見つけたら「いつか必ずトンネルが現れますよ」と励まし、
めでたく親となった人には「この子の人生がトンネルであるように」と祈ろう。

願わくはこれを読んだすべての人の前にトンネルがあらんことを。

バカとはなんだ!バカとは!!


2012年9月5日水曜日

もやもやの

たまに撮りたくなるのがこんな写真。
「撮る」というより「作る」に近いか。

過去にはこんなのも。
http://nisomaru.blogspot.jp/2012/07/blog-post_21.html
絵画でいうなら、カンバスにペンキ缶ごとぶつけたり、筆を振り回して描く感じだろうか。
でもそんなアーティスティックな作品や抽象画は、きちんとした基礎があって、その先で見つける技術や表現なのだろう。

いずれは偶然に頼るのではなく意図して撮れるように、今は基礎をきちんと踏まえてゆかなければなどと思うのだが、やっぱり偶然の産物ってのはおもしろかったりもする。

題「下手の考え休むに似たり」



絶望とは

アスファルトに落ちたどんぐり。
アスファルトの下の蝉。


その点、雑草強すぎて笑う。小4でタバコ始めたタイプ。

2012年9月4日火曜日

おなだっでだはいうぇい

こんなところにあったのか。

わかんとでぃほってーるかーりほーにゃ


2012年9月3日月曜日

Lolita

半月ほど前から調子が悪い。
Windows7で使っている動画編集ソフトのことである。
平均して5分に一度は「重大なエラー」で息絶える。
おかげで30秒に一度はCtrl+Sるクセがついた。
これで作業は小刻みであっても進むが、強制終了と再起動は時間ロスが多すぎる。
あらかた原因は突き止めたが(←実はスゴい)根本的な解決方法を見つけるには至らなかった。
しかたがないのでサポセンへTELすることに。
最新バージョンをリリースしたA社は、旧バージョンのサポートに対して5,250円を徴収するが背に腹は代えられない。5,250円で腹が買えるなら安いもんだと思うことにしてダイヤルした。

ほとんど待たされることもなく繋がったサポートスタッフは力が抜けるほどの真性ロリ声。
ロリのサポート……「児童回春」という単語が頭に浮かんだ私は一旦死んだほうがいいのかもしれない。
そんな淫らな言葉を頭から追いやり、この度の症状を的確に伝える私に、サポートロリっ娘は、このような症状は前例がないことと、これ以上のサポートには料金がかかることをロリロリしい声で説明した。なんという生殺しだ(しっかりと想定はしていたが)。
私は、料金がかかっても構わない旨とともに、今回の原因(と思われる)と、私が望む結果を伝えた。するとロリサポちゃんは「恐れ入りますが、少々お待ちいただけますか?」と意味ありげな言葉を残して私を放置─保留─した。
美人局か?オヤジ狩りチーマー(古)登場か?と不安な心持ちで待つこと1分。驚くべきことにロリッポたんがものすっげぇ的確な解決方法を提案してくれたのだった。無料で。

なぜ有償であるはずの旧バージョンのサポートを無料で受けることができたのだろうか。要因はわからない。
ただ解ったことはある。それは、超ロリ声であってもA社のサポセンに勤めているイコール専門知識を持つ(あるいは的確にマニュアルを開くことができる)プロフェッショナルなのだということと、一瞬であっても淫らな考えに至った四十路のおっさんは気持ち悪いということ。
誤解のないようにはっきり言っておくが、私はロリコンではない。

末筆になったが、早池峰山の山頂に吹く9月の風のように清々しい気持ちで環境改善を完了したことを申し添えておく。


一般的なサポートのイメージ

2012年8月31日金曜日

飛び込み禁止

「小プール」と呼んでいたが、おかしくないか?


……入りたい。

2012年8月29日水曜日

夏の墓標

夏が逝く
名残の熱は尽きる前の灯火
鳴らない海鳴りは沈黙を守る
泣き疲れた子供の如くに


そんなことを思いながら野グソした。

半年ぶり二度目(2012年)

2012年8月27日月曜日

休日論。

結局ろくな盆休みもないまま2012年の終わりに向かう。
こんな生活を20年も続けていると、休めないこと自体へのストレスはあまりない。
仕事は楽しい。内勤に不満はなく、外回りは好きだ。外回りで出会う人々や場所で新鮮な感動が得られる。そいうことで小さなストレスは発散されているような気もする。

休日そのものの有用性は知っている。
好きなことだけをしていられる一日の気持ちよさは他の何とも比べることができないものだし、翌日からの仕事への姿勢も変わってくるから、やはり休暇は取るべきだ。

自分が乾いていることを感じている。せめてもの潤いにと日々写真を撮り文字を書く。
これは、週に一度の満タン給油はできなくても、毎日1リッターの給油をすることに似ている。
不意に長距離を走った時に息切れするのも自明なのだ。

友人は語った。
「深呼吸という行為が今までの生活でなかった」

あるにこしたことはない休日だが、どう過ごすかが大切なのだ。

たとえ乾いても腐らないように生きよう。


2012年8月25日土曜日

#c668f2

夏から秋へ。
それは青から赤へのグラデーション。
季節をひとつまみしたならきっとこんな色。

冬は白で春は黄です。勝手ながら。


2012年8月24日金曜日

Sweet Memories.


どこの折り詰め弁当だったかは忘れたが、ひたすらに豪華で、やたらとでかく、ちょっとしたおせち料理のようだったという記憶は残っている。そうだ、刺身まで入っていたのだ。だからきっと作りたてを配達してくれたのだろう。
フルーツだけでも巨峰にマスクメロン、オレンジと……といった具合で、しまいにはプリンまで入っていたくらいだ。
特大の焼えびや、脂の旨いステーキに大満足して、残すはデザート。甘いものの後に食べるフルーツは酸っぱく感じがちだから、プリンは後回しにした。
最後にとっておいたプリンだが、惜しい、せっかくここまで完成度の高い折り詰めなのだから、スプーンはつけるべきだったろうに、実に惜しい。
しかして箸で食べることとなったきっと手作りだろうプリン。満を持して口へと運んだ。箸で。
するとどうだろう。たちまちのうちに頭に衝撃が、いや、混乱が襲ってきた。
なんだ?私はなにを食べたのだ?その前にこれは口に入れていいものなのか?
風景がぐにゃりと曲がる感覚の中、プリンの味と自分の記憶を照らし合わせる。
しばらくのマッチング作業の末たどり着いた答え。それは「卵豆腐」であった。
よく見ればカラメルなどかかっていないではないか。形も四角いし。
そもそもいくら豪華な弁当であっても、プリンなど入れるはずはない。
「全く以て思い込みというものは恐ろしいものだ」
そんなふうに自分の愚かさと判断力不足を棚に上げつつ味わった卵豆腐はしっかりと立派な既成品の味がした。

そんなことを思い出しながら食べたサーティワンアイスクリームは、見た目以上に美味しかったのである。

2012年8月23日木曜日

立腹。

どーれ 海でも 撮ろうかねー
なんつって いそいそ 藤の川
暮れてますねー いいですねー
なんつって 三脚セッツ 藤の川
あーいいですよー 寄せる波
どうぞそのまま 藤の川

きがつきゃ かれでだ ふくらはぎ
ひい ふう みい よう いつ むう なな
たった じゅっぷん いただけで
かれだ かれだよ ななかしょも
おもえば くるまに あったのだ
むしよけすぷれー あったのだ

蚊絶滅シロ

2012年8月22日水曜日

道具。

どれだけたくさん持っていても
どれだけいいものであっても
使わなければ意味を成さない
そして使われることを待っている


言葉や思いも同じだよ

2012年8月18日土曜日

三つ子の魂

敬愛する先輩にランチをごちそうになった。その際私のカメラマンとしてのルーツをお話しすることになり、自分としても今までの歩みを振り返る機会となった。今一度ここでも振り返っておこうと思う。

宮古高校時代、合唱部と写真部に在籍していたおふくろは、社会人になってからも写真をを趣味としていたようだが、私が中学に入る頃にはカメラを持つことは減っていたと思う。
そんなおふくろからキヤノンのAE-1をぶんどったのはやはり中学に入って間もない頃だった。優秀なカメラだったが、レンズは50mmの単焦点一本。しかも絞りが1.8の開放で固まったままだった。知識のある人には解ってもらえると思うが、このレンズで日中の写真は撮ることができない。明るすぎるからだ。したがって私が写真を撮るのは決まって夕方以降、もしくは雨の日など光線の少ない日ということになる。それでも変わった被写体を見つけてはシャッターを切り、上がってきたプリントを眺めては悦に入っていたのだ。
いずれ、そんな標準レンズ+開放シバリで私のカメラマン人生が始まったのである。

数年前のblogで私は自らを「黄昏写真家」と呼んでいた。そして現在も夕景を好んで撮っている。しかも常用しているレンズは35mmの単焦点。APS-Cセンサで1.5倍となるため、事実上50mmのレンズということになる。さらには浅い被写界深度が描く前ボケ後ろボケ写真好き。
これは取りも直さず中学時代のままということではないか。これがいいのか悪いのかは解らないが、いずれあの中学時代の気持ちよさを今日までひきずっていることは確かだ。

ランチを食べ終えた先輩が「二三週間使ってみて」と私の目の前に一本のレンズを置いた。
14mmF2.8単焦点。超広角と言われる高級レンズだった。
私は超広角に対して超望遠の何十倍も魅力を感じているが、それはとても手の出せる世界ではなく、憧れることはあっても買おうと思ったことはない。
保護フィルタをつけることができない形状、せり出した前玉がひたすら恐ろしいが、大切に扱うことを約束し、先輩の行為に甘えることにした。

一枚目は友人を撮ったが、それは私と友人だけでしまっておくことにした。広角ならではのデフォルメは想像以上の破壊力だったからだ。
その足で風景をさがしてまわった。パースペクティブとデフォルメを切り取りたくて。

なかなかいい題材を見つけられずにいたが、まわりが夕焼けに変わるころホテルの屋上でこの景色に出会うことができた。
煙突的には日の丸構図だが、14mmを思えば寄せなくて正解だったと思う。
f/22-10秒-ISO100だが、おそらくf/16くらいのほうが空の色のためにはよかったかもしれない。そして、フルサイズだったなら、と思わずにいられなかった。

しばらくの間、この新しい世界におぼれられることが幸せである。
齋藤祐一先生、ありがとうございました。

以上、いつにも増して超マニアックな話題でした。

東の空、夕立の声

 ───やっぱり考えは変わらないの?
今日二度目の問いかけにも君は答えてくれなかった。
こういうとき女性はさっぱりしているもので、だらだらと未練がましいのはいつだって男のほうと決まっている。

僕たちは今日、別れる。

最後のデートを提案したのは彼女。曰く僕のためなそうだ。
待ち合わせに指定された店は、僕が来たことのないイタリアンレストラン。昼下がりだがテーブルはすべて埋まっていて、店内は陽気な話し声で賑やかだった。見たことのない夏色のワンピースを着た君が慣れた様子で二人分の料理を注文をした。
所在なく俯いていると、彼女は僕にワイングラスをつき出してきた。
 「ほら、乾杯しよ」
これから別れるというのに、なにに乾杯すればいいのだろうか。そんな僕の気持ちが聞こえたのか、
 「あなたの明るい未来に」
と君は屈託のない笑顔を作り、グラスは澄んだ音色を奏でた。

次々と運ばれてくる料理は綺麗だったし、彼女の話声は終始明るかった。でも何を食べたのか、何を話したのか、あまりわからなかった。わかったのはこの一年楽しかったらしいこと、でも二人は一緒にいないほうがお互いのためらしく、それは決まったことだということ。そして、夏の恋は夏に終るものらしいこと。
それと、酒に弱い彼女が飲み過ぎると足腰が立たなくなることも今日知ったことだった。


夕方前だというのに足元がおぼつかない女性を抱えた僕は、道行く人の視線を一手に引き受け、汗だくでようやく川沿いのベンチにたどり着いた。慎重に彼女を座らせたあと自販機で水を買って戻った僕。ぐったりしている彼女の手にペットボトルを握らせた。
 「あじがど」
下を向いたまま見事な鼻声で彼女が言った。
僕は喉の奥が痛かった。

なにか言いたいけれど、言葉は出かかりもしなかった。聞こえるのは左側の小さな泣き声とハナをすする音だけ。自分の中の声は聞こえなかった。

いつの間にか鳴き出していた秋の虫に気づいた時、川はオレンジ色に輝いていた。そしてふたりに雨が落ちてきた。見る間に見事な夕立となった雨は虫の声も君の泣き声もかき消し、やがて僕の涙を呼んだ。

ふたり肩を揺らし泣いた。声を出して、子供のように。
涙も鼻水も夏の汗までも雨と混じってズボンにワンピースに落ち、やがて地面に吸い込まれてゆく。

ひとしきり泣いた僕らを洗い終わったころ、夕立はピタリと止んだ。
ますますオレンジ色を濃くした川。

すっかり濡れた髪を後ろに流した彼女はスッと立ち上がり僕の前に立った。
 「じゃね」
差し出された右手にどうしたものかと思案していると、君は不意にあっ、と声を上げた。
 「見て」
彼女の右手から顔を上げ、視線の先を追って振り返ると、そこには虹があった。
 「夕方にも虹が出るんだねー」
僕もベンチから立ち上がり、黄昏の虹を眺めた。
 「あなたと最後に見たのが、綺麗なものでよかった」
後ろから聞こえた声にまた喉の奥が痛くなり、僕は下を向いた。
ふたつの影が並んでいた。ベンチの背もたれに映る影は手をつないでいる。
 ───やっぱり考えは変わらないの?
僕の口から出ることはなかった問いかけに君が答えるはずもなかった。
やがてひとつの影が手を振り、遠ざかって行った。
思い出したように再び恋人探しを始めた虫の声が遠くに聞こえた。

夏の終わりに。

ニソップ物語 6
「東の空、夕立の声」

2012年8月18日


2012年8月16日木曜日

「フラッペ」ってなんだよ。

数日前に「好きだからこそ」で書いた。
どうあっても、やっぱり、確実に、往く夏が切ない。
ちとキモいが、胸がギュウギュウな日々である。

どんなに仕事がうまく運んでも、
いっぱい笑える楽しい時間を過ごしても、
夜になると切なくなる。

なにかやり残したことがあるような焦燥感に胸が締め付けられる。
例えるなら、思いを伝えられないまま転校していったあの子を見送るようなそんな気持ち(そんな体験はないが)。

もっと話をしておけばよかったと後悔することは知っている。
それでもいつだって話したいことも話せないまま見送るだけ。
そしてそれはやがて思い出になり、思い出は美しさを増して積もってゆく。
たとえ思い出と呼べるほどの鮮やかさはなくても、
切なさとしてしっかりと刻まれる往く夏。
フラッペ結ばれることのない恋。
そんな安い言葉ですらも胸を震わせる、そんな季節なのだ。


でもかき氷は苦手です。

2012年8月15日水曜日

仲間。

仲間を写真に収めました
同じ志を持つ大切な仲間です
ぼくには撮れない写真を彼は撮ります
ぼくには見えないものが見えているのだと思います


ぼくが撮ったこの写真には愛があります
信頼をし尊敬もしている彼を撮った写真です
普段あまり写真に登場しない彼ですが
この写真以上に彼らしさを写しこんだ写真をぼくは知りません

ぼくは四十を越えたおちゃらけたおじさんですが
今日はまじめに書いています


信頼と尊敬、そして愛
この三つを以って"仲間"
ぼくはそう思っています


同意は求めません。
ぼくは、ぼくですから。

2012年8月14日火曜日

正しいか。
嘘はないか。
醜くはないか。



美しいことは難しいが、醜く生きたくはない。

好きだからこそ

他県ナンバーぬるい海
松の匂い花火の煙
都会の言葉老けた旧友
ひぐらしの声しおれた朝顔
盆の入りは夏の終わり

ひと月前よりも確実に早くなっている夕暮れを認めたくないがゆえに目を開き空を仰ぐ。
つうと飛ぶ赤とんぼの奥にある高さを増した紅い空。

ゆく夏が切ない。

探すフォルダに夕景なし。

2012年8月12日日曜日

What a Wonderful World.

白い半紙と黒い墨。
ほとんどの光を反射する白とほとんどの光を吸収する黒。
書に於いて黒い墨を吸収するのは白い半紙だという事実。
そして二階調ではないという真実。


濃淡のある人生を。

2012年8月11日土曜日

風が吹いていない。

宇宙最強決定戦ももう終わりですね。
メダル数は立派なもんだけど、どうもスッキリしないと感じているのは私だけだろうか。
やっぱり金獲ってこそなんだよな。流行語大賞の候補も今のところ無いし。
このままもやもやのまま終わるんだろな。
まぁ観てるだけなんですがね。

2012年8月10日金曜日

雑食カメラマン

写真ですか。ええ、好きです。まぁなんでも撮りますねぇ。
あー、そうですね。たしかにイベントのスナップは多いっすね。なぜか出掛けた先でイベントやってるんですよー、というのはウソですけど、なんだろ?仕事柄もあってイベントあたりをウロウロしてるせいかも知れませんね。
んーどうだろ。風景ねー。自然とかってことでしょ?嫌いじゃないんだけど、撮ったからナニ?みたいな感じがあるんですよね、カレンダー的な風景は。
ちょっとうまい言葉が出てきませんけど、こう、アートっぽいのが好みですかねぇ。人でも物でも風景でも構わないんですけどね、なんかいいよねー、いいですねー、って感じの写真。
でしょ、わからんでしょ。私もわかんないですもん。わかんないまま撮っていきますよ、ええ、これからもね。

こんなのですかねぇ。わかんないけど。

2012年8月9日木曜日

他人は他人。

僕は僕だ。
人の話を聴くこと、人に合わせようとすることも含めて、僕なのだ。
それはふらふらと揺れることではない。
聴きながら、合わせながら、否定し、拒否し、捨ててもいる。
それは揺るぎなく、変わらずに、一貫している。
これまでの時間をそうして生きてきたように、これからもそうして生きてゆく。
あなたの話は聴くけれど、言うことは聞かない。
僕は僕だ。


君と僕がしている競技が一緒だなんて誰が言ったんだい?










2012年8月3日金曜日

プラス思考とマイナス思考

私は常時極端なプラス思考であり、常時極端なマイナス思考である。
当然のことながらプラスマイナスゼロってワケにはいかない。
なぜだろう。

そもそもなぜ「プラス」と「マイナス」なのか。
アド思考でもサブトラクト思考でもなくて、あくまでプラス思考とマイナス思考という。
なるほど思考は計算ではないということか。
計算でないのならばプラスマイナスゼロになるはずもないのだな。
ところでディバイド思考やマルチプライ思考はおらんのか。イコール思考はいそうだが。

などと思考しつつ呆けていた信号待ち。
ふと右に目を遣るとこんな看板が。


ブログネタが見つかるときってだいたいこんなもんだな。




わからないのは恐怖だ。

2012年8月2日木曜日

8月の色

30年も前のことだ。
体育が不得意だった少年時代のぼくは夏のプールも嫌いだった。
意地悪なほど冷たい水は、フェンスからはみ出しているヨモギの色とさして変わらず、泳ぐのは朽木色のミズカマキリだけでいいと思っていた。

そのくせプールの時間はいつだってあっという間に過ぎていた。
紺色の水着と対照的な白い手足。パァッっと息つぎをする朱い口。
跳ねる水は澄んでいた。

手をかざして見上げる夏空は青くて切ない。
動かなかった夏の恋は、今も青いままで空にある。



2012年7月31日火曜日

数合わせ



7月も晦日と。
11件しか投稿しなかったんだねぇ。
11という数字も嫌いじゃないけど、
12のほうが好き。
13もヤじゃないけど、今月はこれにて打ち止め。




8月もよろしく。

2012年7月29日日曜日

色数

「緑」が見せてくれたモノクローム-単色-の階調。
色の価値を教えてくれるのはいつも自然だ。


ここにスミレかキキョウか、薄紫の花があってもいいとは思うけど。

2012年7月28日土曜日

細くて、柔らかくて、揺れやすい。
ところどころ穴が開いたりほつれたりもする。

でもそれはゆくりなくも強い。
すべて無くなることはない。
欠けたなら修繕すればいい。

光るのはきまって雨あがり
干からびないのは雨のおかげ。


心を込めて言います。クモは嫌いです。

2012年7月26日木曜日

そんな日もある。

神の采配かいたずらか。

全然うまくいかなくても、それはそれでちょっと楽しかったりもする。




















なるようになるもんですよ。

2012年7月25日水曜日

「づ」

気づかないふり

気づかないわけない

気づいてる


気づいてる

気づかないわけない

気づかないふり



今、雨音に気づいた。

2012年7月24日火曜日

勇気

空気、プライド、雰囲気、スタンス。
守ることはかっこいいことだ。

その裏側にある素直でやわらかい自分自身の心の問いかけに答えることもせず、信念は持ちながらも本心ではないかっこ良さを演じる人間を私は信用しない。

いいものはいいと言う。表現する。他の人がなんと言おうと、自分はいいと感じたのだから、それを消化して自分のものにしよう。いいものに対していいと言える素直な行動、そして素直な感情やそれらを表現することで生まれるプラス作用があることを理解しよう。
他人の評価は関係ない。自分が感じたままの気持ちを表さないことが美徳と思っているなら、それは思い違いだと気づくべき。他人の評価を気にしているという時点でかっこ悪いと気づくべき。

自分を守るのが自分であるなら、自分が自分として存在していることをしっかりと意識するべきだ。
そして、その意志を持っているなら、自分自身が周囲に認知されるようにすることを怠ってはいけないと思う。

クールな時代に於いて暑苦しいことばかり語るが、これはどれだけ時代が変わろうとも普遍のものだと信じている。


2012年7月21日土曜日

知らぬは一生の

勝手な言葉のイメージと間違った思い込み。

カラッカラに乾いた倉庫の片隅でジッと巣をはるクモ

田舎の雑貨店、レジ打ちバイトが外を眺めるブラインド、その擦れる音

7月のにおい

小さなカタツムリ

玄関先で拾い上げた

殻をこわす

やわらかい

※出典「日本のチベットからこんにちは」
こういうのを「散文詩」というのだと思っていたがさにあらず、

一刻ごとに色を変える空のように、あたしは変わるかもしれないけど
「夏の夕暮れ」が太古の昔から変わらないように、あたしは変わらないよ。
※出典「貯水池の森」

「散文詩」に近いのはこちらのほうだった。

さらに調べてみると、
>詩には定型詩と自由詩の二大別があり、自由詩の中に散文詩があります。>句読点やカギカッコなどの記号があって、1文ごとに行替えをしていない、ふつうの物語文みたいな体裁で書かれているものが散文詩。
>1文ごとや数句ごとに行替えがしてあって、句読点などがない、見た目「下半分が空白!」なのが自由詩です。
とのこと。なるほどね。
わかっている人には当たり前なんだよね、こんなこと。
勉強になりました。

この写真、上下さかさまなんですよ。わかる人にはわかるのかも知れないね。

2012年7月17日火曜日

寂しい! と書いてみる。

ふとしたことで涙がポロリする日々です。
恒例のおセンチモード。
感動しやすくなるだけならマシなんだけど、寂しい気持ちにもなりやすくなるのが厄介。

経験上二週間ほどで居なくなるのはわかってるから、この日々もあと数日ってとこかな。でも今までと違って、ケアらしいことをしないままだということがちょっぴり不安。

ケアというのは、どんどん泣いちゃうことと気持ちをネットに吐き出すこと。
泣ける映画や音楽に浸って強制的に泣ききる!でも今回はそれをするヒマもないままだった。

まてよ。よくよく思い出してみれば、HONDAのCMとEXILEの「道」に出会ったんだった。
今こうしてネットに吐き出してるし。

やっぱり出口は近いな。うん。

「欲しかった言葉が欲しかったタイミングで与えられた」のはこのCM。
Honda CM「負けるもんか」プロダクト篇

ファンには申し訳ないが、日頃エグザイルはほとんど聴かない。
そんな中、fbの友達に紹介された曲「道」。

2012年7月9日月曜日

男の豆腐ハンバーグ

男の料理なんてもんはテキトーでよい。ただし清潔にな。
50-70gくらいの挽肉は豚でも合い挽きでもいい。気にすんな。あとはテキトーに炒めておいた玉ねぎ、豆腐一丁、卵一個分、赤ワインor酒、塩、コショウをボウルにぶっ込んで、ぐっちょぐっちょ混ぜてこねてする。
指の間むにゅにゅ~を楽しめ。
ナツメグ? ねーよそんなもん。
普通のハンバーグより柔らかいから硬さ調整のためにパン粉投入。量はタネの柔さを見ながら。入れすぎると美味しくないし、少ないと焼いてる時に崩れやすい。しかしテキトーでいい。でも入れ過ぎだけはすんな。
形成もテキトー。空気抜きキャッチボールもしなくていい。並べて焼け。中火で焼け。早く食いたけりゃ蓋しろ。
焼いてるうちに大根おろしとけ。多めに作れ。水は切っておけ。大葉があるなら冷蔵庫から出しとけ。キャベツの千切り始めろ。
テキトーに焼け具合を確かめて裏返せ。キャベツの千切り続けろ。皿用意してキャベツ盛れ。
いいくらい焼けたら皿に乗せて大根おろしを乗せろ。高い円錐な。
ポン酢ぶっかけろ。だばだばっと。塩分はもう充分入ってるさ。
ほら、大葉忘れたろ? 円錐おろしにペトッってくっつけとけ。いいから。
できたぞ。食え。ただでさえポン酢でぬるくなってんだからさっさと食え。

こんだけ簡単にできるんだがな、どれが欠けてもイマイチにしかならねんだ。
肉や豆腐がなきゃそもそも豆腐ハンバーグじゃねぇしな。
塩コショー酒が入らなきゃ寝ぼけ味もいいとこだ。
つなぎの卵がなけりゃボロボロだし風味も出ない。パン粉入れなきゃユルすぎる。
大根おろしがなかったらポン酢だけで食わにゃならん。ケチャップ? あれは普通のハンバーグの時に使ってやれ。


忘れちゃなんねぇのは、こんなもんでも食ってくれる人がいるってこった。
そして自分で食って旨けりゃ文句はねぇな。

以上、それぞれの役割があんだぞって話よ。
いいか、今日は10種類の材料だ。わかるな?
オレは卵な。つなぎ役だから。これは譲らん。


桃井、たまごハゲ。

2012年7月6日金曜日

一コマ。

昨日午後に降りだした強い雨は黄昏の時刻をもって小降りとなった。
厚い雲がゆるると切れ間をつくり、町はにわかの夕映えでオレンジ色に染まった。

西の山に沈もうとする落陽が海に架ける特大の虹。
十五分だけ現れた七色の残照。


「10秒早くても遅くても出会えなかった」
「この瞬間にかまえていたから切り取れた」
写真を撮っているとそう感じることがしばしばある。

夕日に向かって車を走らせていた18:30。雨が小降りになり、明るい夕日が山の上にあった。
もしやと振り返ったらやはり虹が架かっていた。それも特大の。
この一瞬を写真に収めたくて、踵を返し海へむかうことにした。タイヤに踵はないけれど。
グレー、ブルー、ベージュ。複雑に混ざる空色に浮かぶ鮮やかな虹は分毎に薄れてゆく。
愛宕の水門をくぐった時には、もうほとんど消えかかっていた。きっとCPLをかませたところでまともには写らないだろう。
車を停めて窓を開ける。湿った海の風が車内に流れ込む。
消えてゆく虹を二つの目でしっかりと見とどけた。

止まない雨はない。
雨の後には虹も架かる。

写真には残らなくても、記憶には残る黄昏の一コマだった。


とかなんとかいいながら、やっぱり悔しくて。そんな気持ちでシャッターを切るのであった。

2012年7月4日水曜日

【実録】カメラマンにふりかかるアレ。

7月3日19時45分、曇り、無風。
月も見えない夜なのにまだ薄明るいのは、夏至から十日あまりだから。

国立公園浄土ヶ浜。
シーズン前ではあるが、人っ子ひとりいない景勝地というのは貴重なものだ。
秒ごとに光量が減ってゆく広い空間に立ち、耳を澄ます。
寄せる波とともに揺れる小石たち。
高く軽やかな音が湿気を帯びた夜気と混ざり、私の身体を抱いた。


三脚を据え、ファインダーを覗く。
暗く遠い被写体に迷うオートフォーカスを捨て手動で焦点を合わせシャッターを切る。
自然の揺らぎに混ざる機械音。
三十秒の沈黙で切り取る夏の夜がけ。


などと一人浸っていたのに、いつの間にか遠くにある人の気配
こんな時間こんな場所に、って自分も同類なんだけど、ちょっとたまげた。今の今まで気づかなかったからね。
姿を黙視できる明るさじゃないし、話し声もしないし、足が石を踏む音だけが急に聞こえたって感じ

一人、いや二人だな。となれば上のホテルに宿泊しているカップルか?「キミのために国立公園を貸切ったぜだぜハニー」とか言われてジュンジュンしちゃう女子なのか?どうであれ今夜は二人だけの浄土ヶ浜島めぐりなんだろう。逝き先はローソク岩と潮吹き穴のみの。

おっさん妄想物語を炸裂させながら、またパシャパシャと岩の写真を撮ったが、さすがに真っ暗げになってきたので帰ることに。
機材を車に片付けて、Uターンがてらぐるりと周辺を照らしますとね、いないんだね、誰も。


あるんだよね、こういうことってさ。




会ってみたいもんだ。