2012年8月18日土曜日

東の空、夕立の声

 ───やっぱり考えは変わらないの?
今日二度目の問いかけにも君は答えてくれなかった。
こういうとき女性はさっぱりしているもので、だらだらと未練がましいのはいつだって男のほうと決まっている。

僕たちは今日、別れる。

最後のデートを提案したのは彼女。曰く僕のためなそうだ。
待ち合わせに指定された店は、僕が来たことのないイタリアンレストラン。昼下がりだがテーブルはすべて埋まっていて、店内は陽気な話し声で賑やかだった。見たことのない夏色のワンピースを着た君が慣れた様子で二人分の料理を注文をした。
所在なく俯いていると、彼女は僕にワイングラスをつき出してきた。
 「ほら、乾杯しよ」
これから別れるというのに、なにに乾杯すればいいのだろうか。そんな僕の気持ちが聞こえたのか、
 「あなたの明るい未来に」
と君は屈託のない笑顔を作り、グラスは澄んだ音色を奏でた。

次々と運ばれてくる料理は綺麗だったし、彼女の話声は終始明るかった。でも何を食べたのか、何を話したのか、あまりわからなかった。わかったのはこの一年楽しかったらしいこと、でも二人は一緒にいないほうがお互いのためらしく、それは決まったことだということ。そして、夏の恋は夏に終るものらしいこと。
それと、酒に弱い彼女が飲み過ぎると足腰が立たなくなることも今日知ったことだった。


夕方前だというのに足元がおぼつかない女性を抱えた僕は、道行く人の視線を一手に引き受け、汗だくでようやく川沿いのベンチにたどり着いた。慎重に彼女を座らせたあと自販機で水を買って戻った僕。ぐったりしている彼女の手にペットボトルを握らせた。
 「あじがど」
下を向いたまま見事な鼻声で彼女が言った。
僕は喉の奥が痛かった。

なにか言いたいけれど、言葉は出かかりもしなかった。聞こえるのは左側の小さな泣き声とハナをすする音だけ。自分の中の声は聞こえなかった。

いつの間にか鳴き出していた秋の虫に気づいた時、川はオレンジ色に輝いていた。そしてふたりに雨が落ちてきた。見る間に見事な夕立となった雨は虫の声も君の泣き声もかき消し、やがて僕の涙を呼んだ。

ふたり肩を揺らし泣いた。声を出して、子供のように。
涙も鼻水も夏の汗までも雨と混じってズボンにワンピースに落ち、やがて地面に吸い込まれてゆく。

ひとしきり泣いた僕らを洗い終わったころ、夕立はピタリと止んだ。
ますますオレンジ色を濃くした川。

すっかり濡れた髪を後ろに流した彼女はスッと立ち上がり僕の前に立った。
 「じゃね」
差し出された右手にどうしたものかと思案していると、君は不意にあっ、と声を上げた。
 「見て」
彼女の右手から顔を上げ、視線の先を追って振り返ると、そこには虹があった。
 「夕方にも虹が出るんだねー」
僕もベンチから立ち上がり、黄昏の虹を眺めた。
 「あなたと最後に見たのが、綺麗なものでよかった」
後ろから聞こえた声にまた喉の奥が痛くなり、僕は下を向いた。
ふたつの影が並んでいた。ベンチの背もたれに映る影は手をつないでいる。
 ───やっぱり考えは変わらないの?
僕の口から出ることはなかった問いかけに君が答えるはずもなかった。
やがてひとつの影が手を振り、遠ざかって行った。
思い出したように再び恋人探しを始めた虫の声が遠くに聞こえた。

夏の終わりに。

ニソップ物語 6
「東の空、夕立の声」

2012年8月18日


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